モノローグの扱い
舞台上での互いの態度が決定された。
同じ法則で存在するならば、理論的にはモノローグも同様に解決できるかといえば、そうではない。
演者の処理の体系については、問題ないかもしれない。
ただし、態度が見て取れるものだとしたら、モノローグの時間が必要とする「瞬間」はあまりにも膨大で、 聞かせる技術を選びながらその場に存在するとしたら、別の時間軸を必要とする結果になるかもしれない。
稽古をしながら考察。
ひとつのテキストのやりとり、距離を保ち続ける必要のある間柄で近況報告をしあうなどのパターンを通じて、自分以外の人間のテンポを取り入れるところから、なにか突破口がないかを模索しつつ、モノローグの存在自体について考察を継続。
よくよく考えてみたら、佐々木健一の『せりふの構造』だこれ。
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モノローグをどんな風に口走るかを考えたとき、役者は、自分自身とセリフを使って、客席に対して時間を切り盛りすることになる。
その様が客席から見ていられるか、聞いていられるかが演劇のモノローグだった。
ただ、語りの発達を考えたらそれは最終的には歌唱に接近していくのが合理的だ。
セリフ術、戯曲の言葉、歌唱が明確に分岐してからも、結局のところモノローグは朗々と語られてきたのではないだろうか。
だが、近代以降のリアリズムにおいては、この、役者が切り盛りする時間のあり方自体をどうするかを考え、「モノローグ」という「リアル」とは無縁のものの扱いを確認しなければならない。
結局のところ、モノローグが戯曲の時点で「力のある言葉」や「俳優のセリフ術」というものが存在する前提で書かれている場合、「合理的な態度はなにひとつ含まない」ことが多いのではないだろうか。
それはただ近代以前の「劇的」の残滓を惰性で踏襲するものでしかなく、俳優の名人芸を愛でる時間を客席に与え、演劇の手癖に頼って成果らしいものをひねり出すだけの、子供だましの飴玉にに過ぎない。
では、「現代的なモノローグ」は成立し得るのか。
それについて、検証してみる必要がある。