モノローグから派生して、演劇の時間

モノローグが、ひとりで舞台上の時間を切り盛りして見せる時間で、それが演劇のひとつの必然だという理解で、今に至るまで無批判に実行されているのではないかというところからスタート。

会話はどうだろうか。
二人以上の人間で時間を切り盛りしている様子が見えることが、演劇なのかといえば、実際にはそうでもないことがわかる。
ただ、戯曲の順序に従って言葉を発している様子を客席に見せることで、本当に演劇になるのか。

セリフを発する様子があることで補完されるものがあるから成立しているだけの時間が、どの様に強靭さを得るのかについて考えれば、セリフを発することだけが目的で存在している人体が、目的を失ってただ舞台上に立っているだけの瞬間を目にすることも少なくないのだから、なんらかの定義は必要だ。
俳優がその瞬間をどう存在しているかを見失い、演出家もその隙間を制御できなかった結果の穴が存在するのは、戯曲の言葉が本質的にはただの空箱だからで、それが「なにをしていいのかわからない人が舞台上に居る」原因と見て良いだろう。

観客に、見られるべき身体が作られ、見られるべき所作が工夫される場合もある。
なんらかの熱量を身体から発して、舞台上の時間と空間を埋め尽くそうという試みもある。

ただ舞台上にいるだけの存在を許容する寛容さを誰かに求めるくらいなら、どうやったらその隙が無くなるのかを考えた方が、空間のクオリティコントロールにつながる。
セリフを発している人間しか時間が流れていない様な演劇では、隙間以前の問題で、言葉が発され、何らかのやりとりがあることで生じる時間の流れを、どう立ち上げるのか。

戯曲も音譜の様なものだと考えれば、そこに文字として書きようがないものは、確実に存在している。
ただセリフを発しているだけでは、譜面通りに音を発しているのと変わりがなく、音が音楽になる条件を十分に満たしているとは言えない様に、なぞっただけで演劇になるわけではない。