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「フラット」に見えること、観客。

「なにもしない」と「セリフを言ったら負け」と、ここ数年意識している。
結果、「態度」に至ったのだけれど、実際に演者が「なにもしない」を体現しようとすると、どうなるのかを取り出して稽古してみると、「なにもしない」をどう意識するのか。
「なにもしないをする」にはどうすべきかという、矛盾した問いを持つことになる。
しかし、俳優が舞台上で実行するのは「演技」だという前提で考えれば、これは当然のことだ。

そもそも、我々が生きる日常会話のコミュニケーション空間には、グライスの言う「協調原則」に裏打ちされたやり取りや、言葉の裏に潜むマニピュレーション(操作)が常に偏在している。また、エリック・バーンが提唱する交流分析が示すように、他者からの反応を求める無意識の心理的ゲームが絶えず行われている。
俳優も、このような日常を生きている以上、実際には「なにもしない」力加減などというものは、実は想像上の概念にほかならないことを、稽古を通じて浮き彫りにしていく。

稽古テキスト:仕事について考える対話と独白

1. 「なにもしない」ためには「重り」が必要

俳優が自律的に「なにもしない」よう意識すれば、概ね各自の無自覚な日常の手癖ともいえる、なんらかのトーンが漏れ出ることになる。
この手癖とは、まさに他者との関係を無意識に調整しようとする社会的な生存本能の表れである。
これを防ぐためには、単に脱力するのではなく、意識的に内的タスクの「重りを足し引き」することで、身体に染み付いた日常的なコミュニケーションの回路を操作する試みが必要となる。

2. 相手を誘導する「手癖」の完全な排除

日常会話には無意識に「同意してほしい」「探りたい」といった誘導のトーンが含まれるが、これはエリック・バーンの言う「心理的ゲーム」への誘い(釣り込み)に他ならない。
舞台上でこの手癖を徹底的に削ぎ落とすということは、相手をマニピュレート(操作)する道具として言葉を使うことをやめるという宣言である。
言葉を単なる情報の塊としてフラットに投げる(同意・不同意を確定させない)ことで、舞台上には日常のゲームから逸脱した特有の静かな不穏さが生まれる。

3. モノローグの場合を引き合いに出して考える

モノローグにおいて間を埋めるために「考え込んでいる様子(腕組みや視線の動きなど)」の動作をしてしまうのは、観客という他者に対して「自分は今考えている」と伝えようとするマニピュレーションが働いているからで、これ自体が俳優が観客に対して「モノローグの時間進行」を提示する手管になっている。
これが観客の関心を惹きつける方法であり、同時に観客の関心を削ぐ原因にもなる。
従来の方法の「モノローグの時間進行」は、観客に対して、この特殊なマニュピレーションに乗るか乗らないかの選択を直に提示していることに他ならない。
この様な形で、観客を観客ではなく、無自覚な演技の判定者にしてしまう可能性を少しでも排除するには、観客を「無自覚なコミュニケーションの参加者」から、「純粋な観察者」の位置に設定する必要がある。

俳優は、モノローグであっても、相手が目の前にいる状態を保ち、自らの工夫で時間を操作しようとするエゴを捨てて「余計なニュアンスを込めずにただその時間を耐え抜く」こと。
それによって、観客はコミュニケーションの参加者から、ただ、その様子を手がかりに推論を続ける観察者の立場に置くことができる。

4. 静的な極限による「非日常の緊迫感」

至近距離において大声を排し、スタティックな発声を維持することで、相手の反応を引き出そうとする無自覚なやり取りを封じる。
その結果、表面的には会話が噛み合っていても、実際はお互いに別の思考を巡らせているような「謎の噛み合わせ」が生まれる。

この噛み合わせを繰り返す稽古の中で、俳優に求められるのは正解の「フラット」のポイントを撃ち抜くことではなく、むしろ、自らの日常を明確にマッピングしていくことにある。
結果として、手癖の処理のパターンを掴み、そこから離れ、「フラット」を中心にした様々な手段の座標を手に入れる。

観客を観察者の位置から動かさないといっても、鎖で縛り付けられるわけではない。
また観察者としての集中力や、眼の前で進行している事態に対して、推論を働かせ続ける状態は、そう長く維持できるものではない。

「なにもしない演技」の噛み合わせによって時間が進行する。
ピーター・ブルックが言った様に、俳優が居て観客が居れば演劇になる。
ただその「演劇」からは、これを見てほしい、これを聞いてほしいというマニュピレーションが試みられることはなく、観客に対しては進行する事態の観察者として、自律的に、能動的に見る方向に誘導する。